読んだ本メモ⑫ 「オデッセウスの鎖 適応プログラムとしての感情」R.H.フランク著、山岸俊男監訳
「感情」とはなにか、なぜ人は「感情」をいだくのでしょうか。
本書では、先に述べたような自己利益追求モデルを真向から否定することなしに、社会学的もしくは進化生物学的になぜ人間が感情を持つようになったのか、利他的行動が自己の物質的な利益にどう作用し得るのかを鮮やかに説明してくれます。筆者は感情に基づく行動規範を、コミットメント・モデルと呼んでいます。
日本においても「情けは人の為ならず」などのことわざに表れているように、道徳感情は重要視されてきました。
まず、「感情」とは人間の脳にハードウェア的に組み込まれた先天性のものか、それとも文化による条件づけによる後天性のもの、どちらなのでしょう。
文化による条件づけをある程度は認めつつも、それだけでは説明しきれないと述べてられています。とすると、人間が先天的に持ち合わせている感情もあるということになります。つまりそれは、進化の過程で発達させた形質ということ。どうして自然選択により排除されなかったのでしょう、また排除されないということは生存に有利でなくてはなりません、なぜ自己犠牲などが自己利益に繋がるのでしょうか。
人間の自己利益に反した行動や感情の例として、「復讐」、「自己犠牲」、「公正性」、そして「愛」といったものを挙げながら、そういった行動をすること、むしろそういった行動をするという特質をもっていると他者に知られることがゆくゆくは自己利益につながることを、筆者は卑近な例を用いながら教えてくれます。
本書で登場した中でも、わたしの好きな話を一つここで紹介します。二人の人物が登場します。
A氏は、素敵な鞄をもっていました。その鞄の価格は2万円でした。また、A氏は知り合いのB氏がその鞄を手に入れたいと常々思っていることを知っていました。A氏はある日、その鞄を盗まれてしまいます。B氏の仕業であることにA氏は気づきます。裁判を起こせば、B氏から鞄を取り戻すことが出来ますが、そのためには仕事を休まなくてはなりません。優秀なビジネスマンであるA氏は一日に3万円の報酬を受け取っています。裁判のために仕事を休めば、2万円の鞄は取り戻せるかわりに、仕事による3万円の報酬が受け取れません。
人間が自己利益追及モデルで行動をするのであれば、A氏は裁判を起こすことは絶対にないので、B氏は安心して鞄を盗むことができます。しかし、A氏が自己利益を犠牲にしても、鞄を取り戻したいと考える人間である(つまりコミットメント・モデルによる行動をする)、という評判であれば、B氏は鞄を盗むべきではありません。
つまり、ここではA氏が「公正性」の感情を持っているという評判が、未来に起こり得る災難を回避させうるということになります。「私はそういう行動をとります」というコミットメントが、非常に重要であることがお分かりいただけるでしょう。
このたとえ話のような社会における評判だけではなく、その感情を示す表情などの身体的特徴もまた、自己利益につながるということを、非常にわかりやすく示してくれています。
道徳教育というのは、宗教がその役割を主に担ってきたと言えるでしょう。しかし、「人が見ていなくても神は見ている」や「徳を積まねば、浄土に行けない」といった教えは、現代では通用しなくなってきているでしょう。コミットメント・モデルはそれを解決する糸口かもしれません。
そこで最後に、少し長めの引用です。
人間は利己的であると、現代の行動学者たちは考えている。(中略) 自己利益を見逃す生物は自然選択によって排除されると、生物学者は主張している。物質的報酬が学習で大きな役割を果たすことに心理学者は目を向ける。経済学者もまた、(中略)行動を説明したり予測するのに利己主義の観点が有効だとしている
しかし「自己を優先する」という誇張された人間像は、多くの人間にあてはまらない。
と筆者は本書の冒頭で述べ、ボランティアや災害現場における勇敢な行動を例に挙げ、「自己利益を優先する」人間像に疑問を投げかけています。
本書では、先に述べたような自己利益追求モデルを真向から否定することなしに、社会学的もしくは進化生物学的になぜ人間が感情を持つようになったのか、利他的行動が自己の物質的な利益にどう作用し得るのかを鮮やかに説明してくれます。筆者は感情に基づく行動規範を、コミットメント・モデルと呼んでいます。
日本においても「情けは人の為ならず」などのことわざに表れているように、道徳感情は重要視されてきました。
まず、「感情」とは人間の脳にハードウェア的に組み込まれた先天性のものか、それとも文化による条件づけによる後天性のもの、どちらなのでしょう。
自己犠牲行動は、すべて文化による条件づけの結果によるのかもしれない。これはウィリアム・ハミルトンの視点である。ほとんどの文化は、道徳的規則を教育し、強化するのに多くの努力を払っている。これらの規則のほとんどは、「人間性の中の動物的部分」に異議を唱え、他人のために自分の利益を犠牲にするように呼びかけるものである。これらの規則は、ひょっとすると自己犠牲的な行動の本当の理由かもしれない。
しかし、少なくとも何種類かの自己犠牲的行動は、文化によっては説明できない。
文化による条件づけをある程度は認めつつも、それだけでは説明しきれないと述べてられています。とすると、人間が先天的に持ち合わせている感情もあるということになります。つまりそれは、進化の過程で発達させた形質ということ。どうして自然選択により排除されなかったのでしょう、また排除されないということは生存に有利でなくてはなりません、なぜ自己犠牲などが自己利益に繋がるのでしょうか。
人間の自己利益に反した行動や感情の例として、「復讐」、「自己犠牲」、「公正性」、そして「愛」といったものを挙げながら、そういった行動をすること、むしろそういった行動をするという特質をもっていると他者に知られることがゆくゆくは自己利益につながることを、筆者は卑近な例を用いながら教えてくれます。
本書で登場した中でも、わたしの好きな話を一つここで紹介します。二人の人物が登場します。
A氏は、素敵な鞄をもっていました。その鞄の価格は2万円でした。また、A氏は知り合いのB氏がその鞄を手に入れたいと常々思っていることを知っていました。A氏はある日、その鞄を盗まれてしまいます。B氏の仕業であることにA氏は気づきます。裁判を起こせば、B氏から鞄を取り戻すことが出来ますが、そのためには仕事を休まなくてはなりません。優秀なビジネスマンであるA氏は一日に3万円の報酬を受け取っています。裁判のために仕事を休めば、2万円の鞄は取り戻せるかわりに、仕事による3万円の報酬が受け取れません。
人間が自己利益追及モデルで行動をするのであれば、A氏は裁判を起こすことは絶対にないので、B氏は安心して鞄を盗むことができます。しかし、A氏が自己利益を犠牲にしても、鞄を取り戻したいと考える人間である(つまりコミットメント・モデルによる行動をする)、という評判であれば、B氏は鞄を盗むべきではありません。
つまり、ここではA氏が「公正性」の感情を持っているという評判が、未来に起こり得る災難を回避させうるということになります。「私はそういう行動をとります」というコミットメントが、非常に重要であることがお分かりいただけるでしょう。
このたとえ話のような社会における評判だけではなく、その感情を示す表情などの身体的特徴もまた、自己利益につながるということを、非常にわかりやすく示してくれています。
道徳教育というのは、宗教がその役割を主に担ってきたと言えるでしょう。しかし、「人が見ていなくても神は見ている」や「徳を積まねば、浄土に行けない」といった教えは、現代では通用しなくなってきているでしょう。コミットメント・モデルはそれを解決する糸口かもしれません。
そこで最後に、少し長めの引用です。
コミットメント・モデルは、感情が道徳的行動を引き起こすのだと主張する。このような感情の役割を考えると、友達を騙そうとは夢にも思わないのに会社のもの盗んだり脱税をしたりしても平気な人がたくさんいることも、容易に理解できる。共感は個人に対しては生まれやすいが、大きな制度に対しては生まれにくいからである
大昔には大きな組織がなかったので、人々が組織を相手に誤魔化しするかどうかはどうでも良い問題であった。しかしもちろん今日の生活は、大組織なしには考えられなくなっている。そして、大組織を相手に誤魔化しをしてもなんとも思わない人々のいる社会に住むのは、明らかに不利なことである。
この問題に対する現代流の対応は、摘発と罰則である。密告者や嘘発見器や薬物検査を使って問題のある人間を発見し、罰金や解雇や投獄でそういった連中に罰を与える。コミットメント・モデルは、このやり方以外に(あるいはその補足として)、もっと別の効果的なやり方があるとしている。制度に対する人々の態度を「個人化」するというやり方である。結局の所、政府を欺くことは隣人を欺くことである。雇い主から盗んだり、麻薬を吸いながら仕事をしたりするのは、同僚から盗んでいるのと同じである。問題は、この結びつきを直接感じとれない点にある。子供達に道徳に価値を教える際には、この結びつきを強調する必要があるだろう。
オデッセウスの鎖―適応プログラムとしての感情
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