科学ジャーナリズムについて
私のいる大学では「科学技術ジャーナリズム」という講義が開講されていて、私は時々修士の学生に混じって聴講しています。その時に聞いた話を今回まとめました。 科学の常識は、世間には理解されにくいのが現状です。 科学は「ブレーキのない車」と言われます。(村上陽一郎『科学者とは何か』新潮選書) 知識と技能を職能の基礎とする人たちには、医師、聖職者、法曹家、そして科学者がいます(他にもいろいろあると思いますが、大まかに)。医師、聖職者、法曹家は苦しんでいる人たちを対象とした仕事です。外部社会とのつながりの上に成り立っていて、外部社会の評価を受ける職業です。 しかし一方で、科学者は同業者にのみ目を向け、同業者の評価だけを求めて、自己完結的な営みを重ねていると言われます。(全てが全てそうというわけではありませんが…) それは、専門誌に論文を載せることに重きを置き、それこそが共同体に対する誠実な態度と考えられているからです。メディアにばっか出ている人は科学者から疎まれるのもこうした科学の常識によるところです。そもそも、科学というものは過去の功績の上に積み重なるように、ときには過去の功績を書き換えながら、堅実な知識を蓄えてきたという事実があります。それゆえ、一般世間との壁は厚くなる一方であり、分野の細分化が進む現在では科学者同士であっても分野が違えば常識が通用しないということが起こるわけです。 科学は外国文学に例えられます。 例えばロシア文学を私たちが読むためには、二通りの方法があります。一つは、ロシア語を勉強すること、もう一つは翻訳を読むことです。科学を理解するための方法は、科学の基礎を学ぶことだけでしょうか。そんなことはありません。ロシア語をみんなが学ぶことが現実的でなく、翻訳を読む方が大半であることと同様に、科学についても翻訳が必要だということです。それこそが、科学をわかりやすく伝えるサイエンスライティングやサイエンスコミュニケーションの仕事です。 もちろん「戦争と平和」の邦訳を読んでも、トルストイの伝えたいことを完全に理解することはできません。ロシア語だからこその表現方法であったり、ロシアの文化、時代背景を私たちが共有できていないからです。しかし、翻訳を読むことはトルストイを知る入り口であり、その価値に触れるきっかけです(私は読んだことありませんが…)。興...