読んだ本メモ⑭ 「『みんなの意見』は案外正しい」 J・スロウィッキー著 角川文庫

グーグルが何十億というウェブページから、探し出しているぺーじをピンポイントで発見できるのも、正確な選挙結果が予測できるのも、株式市場が機能するのも、すべて「みんなの意見」つまり「集団の知恵」のたまものである。多様な集団が到達する結論は、一人の専門家の意見よりもつねに優るという説を提示し、ウェブ時代の新しいパラダイムを予見。

このように、背表紙に評されています。これは、「集合知」について書かれた読物。
さまざまな実験、実際に起きたエピソードを交えながら、わかりやすく説明してくれます。少し前には、「ビッグデータ」が騒がれたり、「ダイバーシティ」という言葉がはやったり、というのにも多分に「集合知」の重要性が認識されてきたことに深くかかわっているでしょう。
どんな優秀な個人よりも、「みんなの意見」が優る。ということはにわかには信じがたい。ですが、グーグルや株式市場だけでなく、現代社会のさまざまな局面で「みんなの意見」の正しさは証明されているのです。


「みんなの意見」が賢い判断を下すためには、四つの条件が必要です。
・意見の多様性(それが既知の事実のかなり突拍子もない解釈だとしても、各人が独自の私的情報を多少なりとも持っておる)
・独立性(他者の考えに左右されない)
・分散性(身近な情報に特化し、それを利用できる)
・集約性(個々人の判断を集計して集団として一つの判断に集約するメカニズムの存在)
個人の回答には情報を間違いという二つの要素があり、この四つの条件が満たされるとき、間違いは相殺されて情報だけが残る、というわけです。


意見の多様性を確保するためには…
(前略)重要なのが多様性だ。これは社会的多様性ではなく、認知的多様性のことである。同じ基本コンセプトを少しずつ変えただけのアイディアよりも、発想が根本から違う多様なアイディアがたくさん出てくるように企業家の発想には多様性が必要だ。それに加えて資金を持っている人の多様性も必要だ。

多様性そのものに価値があり、集団のメンバーを多様にするという単純なことだけで、よりよいソリューションにたどり着ける。知性が重要ではないとは言わない。だが集団のレベルで考えれば、知性だけでは不十分だ。問題を多角的に検証する視点の多様性が得られないからである。知性というのは、いろんなスキルが入った道具箱のようなものだと考えると、最良と考えられるスキルはそれほど多くなく、したがって優秀な人ほど道具箱の中身が似通ってしまう。これは通常であればよいことだが、集団全体としては本来知りうる情報が手に入らないことになる。それほどよく物事を知らなくても、違うスキルを持った人が数人加わるとこで、集団全体のパフォーマンスは向上する。

多様性にはほかのメリットも!
多様性には、集団に新しい視点を加えるだけでなく、集団のメンバーが自分の本当の考えを言いやすくするメリットもある。次章で取り上げるが、意見の独立性というのは集団が賢明な選択をするのに必要不可欠でありながら、維持が極めて難しい要素である。多様性は独立性の確保に不可欠なので、多様性がない賢明な集団なんて考えられないのである。


独立性を保つためには… ~賢い模倣と漠然とした同調~
二種類の模倣を区別するのは難しい。自分が何も考えずに周囲と同調しているとか、群れていると認める人はほとんどいないだろうから。だが、賢い模倣にはいくつかの前提条件が必要だということははっきりしている。まず、初期の段階では選択肢も情報も潤沢に存在していること。次に、それがたとえば合理的とは思えなくても、みんなの意見よりも自分の意見を優先させようと思う人が少数でも存在していること。

グループの集合的な意思決定が重要視される状況下では、人々は自分の私的情報に基づいて判断するようになった。驚くことなかれ、こういうグループにおけるみんなの意見は、情報カスケードが起きているグループよりもはるかに正確になった。
 ハンとプロットの実験は、人々がタイミングをずらして判断する機会をなくし(減らし)、先に意思決定をした人の意見がさほど重要視されない仕組みをつくった。グループのメンバーがそれぞれ独自に決断をするよう求めたこの実験の成功は、独立性を保つことの重要性とその難しさを同時に示している。みんなの意見が正しくなる鍵は、人々に周りの意見に耳を貸さないよう説得できるかにある。


「分散性」とは何を意味しているのか
権力が一か所に集中しているわけでも、未来を見通す力を持った全知全能のプランナーが決定するわけでもなく、一人ひとりが持つローカルで具体的な知識に基づいて重要な意思決定がなされている。
 分散性は労働、興味、関心などさまざまな視点から見た専門性を奨励する一方で、巡り巡ってそうやって生まれた専門性が分散性をいっそう促進する。アダム・スミスが指摘したように、専門性が高まることで生産性や効率も高まる。分散性はシステム全体として視野を広げ、意見や情報の多様性を生み出すのである。


「集約性」については?
 シェリングは、多くの場合には人々の予測が収斂する、ランドマークのような目立つ焦点が存在していると考えている。今日、こうした焦点は「シェリングポイント(暗黙の調整)」として知られる。
 シェリングポイントが重要な理由は、いくつかある。まず、中央権力からの支持はもちろん、お互いの意思疎通すらなくても、人々が集合的なメリットのある結論に到達できる可能性を示している。
 第二に、シェリングポイントが存在しているという事実から、人々が生きている日常世界、個人が体感しているリアリティは驚くほど似通っていて、それゆえに調整が成功しやすいと考えれる。事前の打ち合わせなしにグランドセントラル駅で会えるということは、どちらにとってもグランドセントラルが同じような意味合いを持っていたからだ。

単純なルールで十分?
外部から観察していると、群れを守ろうとするリーダーが群れの動きを導いているように見える。そこまでいかないにしても、椋鳥たちは少なくともお互い協調して、群れの生き残りのためにあらかじめ合意した戦略に沿って動いているように見える。だが、どちらの見解も間違っている。椋鳥は次の四つのルールに従って行動している。
①中心にできるだけ近いところにいるようにする
②隣の個体と二、三羽分の距離を空けて飛ぶようにする
③ほかの個体にぶつからないようにする
④鷹に襲われたら逃げる
ほかの個体の次の行動を知っている椋鳥はいない。ほかの個体に命令する椋鳥もいない。群れが正しい方向に進み、捕食者の攻撃を避け、バラバラになっても群れがもう一度まとまれることを保証するのは四つのルールだけだ。


資本主義と信頼関係
 経済学者のスティーブン・ナックは次のように述べている。「ある国家の経済成長に確実に貢献できる信頼というのは、まったくの赤の他人との間に存在する信頼である。正確には、無作為に選んだその国の住民二人の間に存在する信頼である。誰を知っているかとか、個人的な評判といった要素があまり影響力を持たない、大きく流動性の高い社会においては、当事者双方にとって有益な取引はそれまで個人的なつながりがまったくあかった二者の間で行われることが多い」。
 だが、資本主義と信頼の間の結びつきは目に見えない。それは日常生活に溶け込んで、普通のことになっていしまっている。(中略)こうした信頼感は、現代のあらゆる資本主義社会の根幹にある制度的、法的な枠組みなしには存在しえない。


「みんなの意見」は政策決定にも使える?
2003年秋にマサチューセッツ工科大学のテクノロジー・レビュー誌は、イノベーション・フューチャーというウェブサイトを開設し、人々が技術的進歩の未来に賭けられる場をつくった。ジョージ・メーソン大学経済学部の教授で、多数の人が参加する予測市場が持っているポテンシャルを最初に示したロビン・ハンソンは、こうした市場は科学的研究に方向性を与え、ひいては政府がよりよい科学技術振興政策を立案するためのツールになりうると指摘している。


「みんなの意見」と科学
1966年に592人の科学者の刊行物や研究活動が調査された。D・J・デソラプライスとドナルド・B・ビーバーは「もっとも多作な科学者は共同研究の機会も圧倒的に多く、彼に続いて多作な科学者の4人のうち3人は共同研究の数も彼に続いて多い」ことを発見した。ハリエット・ズッカーマンはノーベル賞受賞者41人と同じようなポジショニングの科学者を比較し、ノーベル賞を受賞していない科学者よりノーベル賞を受賞した科学者のほうが頻繁に共同研究をしていると発見した。(中略)有名な科学者のほうでもほかの科学者との共同研究を非常に重要視しているという事実は、とりもなおさず現代の科学に協力が果たす役割の大きさを示している。

ニュートンは「巨人の肩の上に立つ」という表現で、科学のこうした側面を指摘した。彼自身は理論的研究のほとんどを独力で行い、類例のない自分の研究の独自性を保つことに執心していた。したがって先行研究があったからこそ自分の洞察が得られたということをこういうふうに表現しているのである (中略) 科学的知識は累積的だとニュートンは指摘したわけだが、科学的知識はそれ以上に集合的でもある。科学者は先行研究だけではなく、自分と同時期に行われている研究のうえにも業績をつくりだしている。同時期に行われているほかの研究も、当然自分の研究のうえに成り立っている。間違った仮説を提示した科学者も、その理論が不用だと示しているという意味ではほかの科学者の役に立つ。
(中略)科学の世界が秀逸なのは、利己的な行為が結果としてみんなのためになる仕組みを持っている点だ。一人ひとりの悪名が高くなるプロセスで、科学のコミュニティひいては私たちが住む社会全体はもっと賢くなるのだ。

科学的研究の大半は過去も現在も政府の資金を使って行われていて、同業者の評価がそういった研究に必要な補助金の給付先を決めていることを考えると、同業者の関心が科学者の行う研究内容に直接的かつ具体的な影響を与えているという事実は否めない。だた、大事なのは個々の研究者に研究内容を指示する、科学界に君臨する大帝が存在しないという事実である。それは自己利益を追求する自由を個人に与えることで、研究内容を指示するより集合的によい結果がもたらせると信じられているからだ。

協力と競争の奇妙なブレンドが生まれる土壌は、情報への自由なアクセスを求める科学研究のエートス(社会集団全体に浸透している気風、精神)にある。このエートスは17世紀の科学革命にまで遡れる。科学的知識の発展を目的に設立されたもっとも古く、もっとも権威ある機関の一つであるイギリスの王立協会が、フィロソフィカル・トランスアクションズ誌を初めて発行したのは1665年のことだ。
 科学史を振り返ると、この雑誌の創刊はのちの科学の発展に大きな影響を及ぼす決定的な瞬間だった。あらゆる新しい発見はできるだけ広く、自由に行き渡らせるという考えに、トランスアクションズ誌が熱烈なコミットメントを示してきたというのがその理由だ。
 王立協会初代事務長であり、トランスアクションズ誌の編集者でもあったヘンリー・オルデンバーグは科学の発展に秘密主義は有害だという考え方を先駆的に広め、新しい理論の創造者、発見者という名声の代わりに、自ら考え出した理論の所有権を放棄するよう科学者たちを説得した。
 オルデンバーグは知識というものが持つ独特の性質を深く理解していた。それはほかの資源と違って、消費されて枯渇してしまうような類のものではなく、価値を失うことなく広く行き渡らせることができる。むしろ知識は広まれば広まるほど、その価値が増す可能性は高くなる。知識の使い方の幅が広がるからだ。

現実に科学とビジネスの対立が存在していることも確かだ。企業が研究に資金を提供する一方で、満足のいかない結果しか得られないと研究成果は隠すというふるまいは、生きていたら、ヘンリー・オルデンバーグの不興を買ったことだろう。公的資金は科学の発展に不可欠だ。特に基礎研究の分野では、ある程度商業的な要請から科学者を自由にするという観点から重要だ。


「みんなの意見」とチーム
一般的なルールとして、議論をした後は、集団全体も個々のメンバーも、議論を始める前よりも極端な見解を採るのだ。
なぜ極性化が起きるのか。人々が「社会的比較」を拠り所にしているというのが理由の一端だ。集団内の自分の相対的な立場が維持できるように、人は自分と周りの人をいつも比較している。自分は集団の真ん中あたりのポジションから出発したのに、集団全体が右の方向にシフトしたとしよう。すると、ほかの人と比較したときの自分の立ち位置がずれないように、自分のポジションを右にシフトしがちだ。自分が右にシフトすることで、当然グループ全体も右に動かすことになる。したがって、こうした社会的比較はある種の自己達成的な予言だとも言える。真実だと思われることがやがて真実になるのだから。


「みんなの意見」と企業
「まるごとアウトソーシングする」モデルの問題は、いろいろな取引や契約の条件を決めて履行状況をモニターする時間や手間が膨大になってしまうことにある。全員が約束どおりに確実に仕事をしていることを確認するのはなかなかたいへんなのだ。

ハリウッドのギャング映画を観ると、ビジネスを調整するいろいろなアプローチが持つ可能性とリスクが一度にわかる。(中略)ギャング映画は利己的な個人を一緒に働かせて共通の目標を達成しようとする過程で直面する問題を非常にうまく描いている。映画の中のギャング組織はだいたい三種類に分けられる。
 一つは『ゴッドファーザー・パートⅡ』が典型だ。物事はトップダウンで進められる。コルレオーネ・ファミリーの帝国は、大きな広がりを持った複合企業体のようなもので、マイケル・コルレオーネは(適法なものも含め)ビジネスを広げようとするCEOにも等しい存在だ。
 このタイプの組織にはいくつかメリットがある。組織のトップは迅速に意思決定を下し、その決定を直ちに実行に移せる。長期的な計画の立案がしやすく、したがって長期的な投資にも向いている。代貸しが至るところにいるので、自分が直接手を下さなくても遠隔地の事業を効率的に運営できる。事業は着実に現金を生み出すので、マイケルはほかから資金調達をすることなく大きな投資ができる。
 一方でこのタイプの組織の欠点も、はっきりしている。代貸しは手持ちの情報すべてを親分に報告することが必ずしも自分の利益に適うわけではないと思っているので、マイケルは必要な情報を手に入れるのに苦労する。(中略)トップダウンの組織なので、マイケル以外の視点は活かされない。それは長期的に見てファミリーにとってマイナスだ。
 マイケル・マンの映画『ヒート』ではまったく違ったタイプの組織が見られる。この映画では強い結びつきのある、小さなプロの強盗集団のリーダーをロバート・デ・ニーロが演じている。ここには小さくて、求心力の強い集団の長所がすべて見られる。信頼、専門性、メンバー各人の能力への理解など。お互いに監視しやすいために、大きな組織と比べて誰かが怠けたりただ乗りしたりする可能性は少ない。ギャングの活動から得られる報酬は各人の努力に直結しているため、貢献しようというインセンティブが非常に強い。
 だが、小さいということはギャング団の可能性を限定もする。メンバーの野心は、ギャング団が持っているリソースに制限される。報酬は完全に個々人の努力次第なので、間違いを犯す余地はほとんどないが、たった一つの間違いがグループ全体の破滅につながりかねない。
 第三のモデルは『レザボア・ドッグス』等の映画に見られる。一つの仕事をするためにバラバラの個人が集まってチームをつくり、仕事が終わったらみんなバラバラに戻るタイプで、インディーズの映画づくりに似ている。このモデルを使えば、プランニング、金庫破り、爆発物の扱いなど特異な才能をもった人材を幅広く集められ、仕事に必要な能力を持った人をグループに確実に入れられる。
 このモデルの問題は、取引コストだ。チームをつくるのに手間暇がかかる。チームのメンバーが自分のためだけでなく、チーム全体の利益のために仕事をするように仕向けるのも並大抵のことではない。お互いに面識がほとんどないメンバー同士の間には信頼関係がないため、ほかのメンバーが裏切ったりしないか確かめるのにかなりのエネルギーが無駄になる。

 1920年代には大手企業数社が利益配分制度を導入し、従業員が者の経営に参画できる権利を与えた。1930年代には、社会学者のエルトン・メイヨーが人間関係論を唱え、経営陣が自分たちの声に耳を傾けていると感じられると、従業員はもっと幸せになり、生産性も向上すると主張した。1950年代、企業はやたらに集団の価値を強調し、チームワークとか委員会といった考えに憑りつかれているようだった。

個人と企業の利益を一体化させる目的で1990年代にアメリカ企業が積極的に取り入れた制度の一つにストックオプションがある。経済学者のジョセフ・ブレイジとダグラス・クルーズが行った調査は、ストックオプションは確かに企業の生産性、収益性などを向上させるのに非常に大きな役割を果たすが、従業員の大半にストックオプションを与える企業だけがそのメリットを享受すると発見した。しかしながら、ほとんどのアメリカ企業はストックオプションのかなりの部分を少数の経営幹部に与えているというのが実状だ。
 だいた家にしたって借りている人より所有している人の方がきちんと家の手入れをするのだから、ストックオプションを使って従業員に企業が自分のものであるという感覚を与えられるのも、そう不思議なことではないかもしれない。
 ストックオプションよりもっと大事なのは、硬直化した社内の階層制度を廃止し、意思決定の権限を本当の意味で広く配分することだ。ブレイジとクルーズが述べているように「従業員の参画という形式だけでは不十分で、意思決定の実質的権限の委譲と企業の所有権の取得に伴う目に見える報酬が何らかの形で必要なのである」。


「みんなの意見」と市場
バブルは金融市場特有の現象だ。なぜか。株を買うときに、本当に買われているものは何か考えてほしい。そこで買われているのは、文字どおり企業の予想収益の一部だ。私がある企業の下部を一株持っているとしよう。その企業が一株あたり二ドル稼げば、私のポケットに二ドル入る。だが、それと同時にその株を誰か別の人に転売する権利も買っている。その企業の将来に関して自分よりも楽観的な見方をしているて、だからこそ自分が買ったよりも高い価格で買ってくれる人が理想の転売先だ。
 物理的な実体のある商品を買うときも、必ず転売する権利を一緒に買っている。だが、実体経済では転売についてはあまり考えない。パソコンの価値は、将来転売するときの価格に左右されない。実際にパソコンを種有している間にどれだけ使えるかという点に左右される。物理的な実態のある商品の場合、骨董品や芸術品などの例外的な商品を除けば、時間の経過とともに価値を失い。、転売できても自分が購入時に支払ったよりも低い価格で転売することになるからだ。


「みんなの意見」と民主主義
 民主主義が存在するのは、政治への参画意識や自分たちの人生をコントロールできるという感覚を人々に与えることにより、社会的安定をもたらすためだろうか。それとも個人が自らを治める権利があるからだろうか―たとえ人々がろくでもないことにその権利を行使するとしても。あるいは民主主義が賢明な判断を下し、真実を発見する優れた手段だからなのだろうか。

 民主主義に関してみんなに受け入れられる基準を確立するのは難しい。それは人々が利己的だからとか、公益に反する振舞いをするからではない(企業でも市場でも同じことは起きていて、企業の経営幹部には株価が本当の企業価値を反映しないようがいいと思っている人がたくさんいたりする)。そうではなくて、経済学者のヨーゼフ・シュンペーターの言葉を借りれば、「個人や集団によって公益の定義は当然異なる」からだ。
 だから、公益のために行動してると発言し、実際にそう信じている二人の政治家がまったく異なる政策を支持するような事態も起こる。それぞれの政策に反対も賛成もできる。だが、どちらかの政治家が公益という究極の大義に反する行動をした、とはっきりとは言えない。

 皮肉屋のチャーチルは「民主主義は最悪の政体である。これまでに試された過去のあらゆる政体を別にすれば」と言ったが、それに倣って民主主義はほかの政治システムよりはマシなんだ、というところでこの話を終わりにしてもいい。だが、いい残されていることがある。
 本書の冒頭で、集団が直面する問題には認知、調整、協調の三種類があって、それぞれの問題ごとに集団の知恵は異なる顔を見せながら問題を解決に導くと述べた。調整と強調の問題に対する集合的なソリューションは、認知の問題に対するソリューションと異なる。前者のほうが曖昧で、はっきりとしない。エルファロル問題へのソリューションや、最後通牒ゲームや公共財ゲームでの多くのプレーヤーの反応を思い出してほしい。

 私たちはどのようにすれば共生できるのか。どのようにすればみんなの利益になるように力を合わせられるのか。民主主義はこうした問いに答える力を貸してくれる。
 民主主義の経験は、自分のほしいものが全部手に入れられるような経験ではない。それは自分の敵が勝利し、敵が自分のほしかったものを手に入れる様子を目の当たりにする敗北の経験であり、敗北を受け入れる経験でもある。敵の勝利を受け入れられるのは、彼らが自分の大事にしているものを破壊することはないだろうし、いつかは自分のほしいものを手に入れられる機会に恵まれると信じられるからだ。
 健全な民主主義は、社会契約の基礎である歩み寄りという美徳、それに変化という美徳をもたらす。民主主義の下に生まれたみんなの意見に集団の知恵が現れているのである。

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