読んだ本メモ⑲ 「アンドロイドは人間になれるか」 石黒浩著 文春新書
アンドロイド研究の第一人者、石黒浩教授の著書「アンドロイドは人間になれるか」
石黒教授の研究室では、ヒト型ロボット、アンドロイドの開発をおこなっています。
美しい容姿のアンドロイド、コミュニケーションのためのヒト型ロボット、落語をする米朝ロイドやマツコ・デラックスとうり二つのマツコロイドなどなど...
まずは、用語を整理しようと思います。
本書によると
「ロボット」は、見かけからして機械然としているものである。コンピュータにセンサとアクチュエータ(駆動装置)がついていれば、なんでもロポットだ。
対して「アンドロイド」は見かけが人間そっくり、ただし中身は機械の「人間酷似型」のもの(見かけだけだと、人間かどうか区別つきにくいもの)を指す。
その中間のようなものが、「ヒューマノイド」だ。手足がある、顔があるといった、擬人化しやすい「人間もどき」、それなりに人間っぽいものを指す。たとえばドラえもんはヒューマノイドではあるが、アンドロイドではない。
〜ちなみに、本書には登場しないが、人間がベースで機械が加わったものは、サイボーグ。人工内耳など、機能代替の装具は広義の意味ではサイボーグといってもいいかもしれない。〜
人間に酷似したロボットを作ることは、人間について考えることでもある。
著者は最初、「ヒトの気持ちを考える」ために、人工知能の研究をしていたそうです。
しかし、脳の神経回路を研究して、それを模倣しようとしても、いっこうに「人の気持ち」はわからない。
それは、「からだ」がないからだ。
図らずも、つまらないだじゃれになってしまいましたが、
脳しかない人間は、賢くなりえないのだ。体がなければ何も「経験」ができず、経験がなければ過去の出来事を次の行為にフィードバックすることができない。
人は、目で見て、耳で聞いて、指で触れて、、五感を通して情報を得ることで賢くなる。
わたしも、人の脳について研究しているけれど、からだはとても重要。もちろん、脳がからだを制御しているのですけれど、からだからの感覚情報のフィードバックが脳に変化をもたらしてもいます。からだからのフィードバックがなければ、脳は機能を保つことが出来ません。
生物は、生存競争のなかで、環境に適応する力を身につけてきました。それは、世代を介して「進化」することでもあるし、進化によって神経系は「可塑性」という環境適応のための能力を身につけています。これは、感覚からのフィードバックをもとに(環境に合わせ)神経の機能性が”変化する”こと。
ちょっと、話がそれてしまったが、”変化する”ということは、逆に言えば、維持することが難しい、とも言えるでしょう。維持するためには、身体が必要で、脳と身体は切り離して考えるわけにはいかないのです。
このように、アンドロイドの研究は人を理解するためのものですが、実際どのようなことが研究からわかるのでしょう。
例えば、人間の「こころ」とは何でしょうか。
こころと言われて、みなさん心臓を指差す人もいれば、脳をさす人もいるでしょう。
「こころ」はどこにあるのか。「こころ」の実体はなんなのか。
石黒教授は、アンドロイドに演劇をさせました。
「アンドロイドの演技なんて面白くないだろう」と思うでしょう。
動きはプログラミングされていますので、なんどやっても同じ演技ができます。
しかも、人間の見た目、動きも人間らしい。そんなアンドロイドが演技するのです。
そして、そんなアンドロイド演劇を鑑賞した人は、なんと感動してしまうそうです。
アンドロイドがこころを持っているかのように、感じてしまうのです。

石黒教授の研究室では、ヒト型ロボット、アンドロイドの開発をおこなっています。
美しい容姿のアンドロイド、コミュニケーションのためのヒト型ロボット、落語をする米朝ロイドやマツコ・デラックスとうり二つのマツコロイドなどなど...
まずは、用語を整理しようと思います。
本書によると
「ロボット」は、見かけからして機械然としているものである。コンピュータにセンサとアクチュエータ(駆動装置)がついていれば、なんでもロポットだ。
対して「アンドロイド」は見かけが人間そっくり、ただし中身は機械の「人間酷似型」のもの(見かけだけだと、人間かどうか区別つきにくいもの)を指す。
その中間のようなものが、「ヒューマノイド」だ。手足がある、顔があるといった、擬人化しやすい「人間もどき」、それなりに人間っぽいものを指す。たとえばドラえもんはヒューマノイドではあるが、アンドロイドではない。
〜ちなみに、本書には登場しないが、人間がベースで機械が加わったものは、サイボーグ。人工内耳など、機能代替の装具は広義の意味ではサイボーグといってもいいかもしれない。〜
人間に酷似したロボットを作ることは、人間について考えることでもある。
著者は最初、「ヒトの気持ちを考える」ために、人工知能の研究をしていたそうです。
しかし、脳の神経回路を研究して、それを模倣しようとしても、いっこうに「人の気持ち」はわからない。
それは、「からだ」がないからだ。
図らずも、つまらないだじゃれになってしまいましたが、
脳しかない人間は、賢くなりえないのだ。体がなければ何も「経験」ができず、経験がなければ過去の出来事を次の行為にフィードバックすることができない。
人は、目で見て、耳で聞いて、指で触れて、、五感を通して情報を得ることで賢くなる。
わたしも、人の脳について研究しているけれど、からだはとても重要。もちろん、脳がからだを制御しているのですけれど、からだからの感覚情報のフィードバックが脳に変化をもたらしてもいます。からだからのフィードバックがなければ、脳は機能を保つことが出来ません。
生物は、生存競争のなかで、環境に適応する力を身につけてきました。それは、世代を介して「進化」することでもあるし、進化によって神経系は「可塑性」という環境適応のための能力を身につけています。これは、感覚からのフィードバックをもとに(環境に合わせ)神経の機能性が”変化する”こと。
ちょっと、話がそれてしまったが、”変化する”ということは、逆に言えば、維持することが難しい、とも言えるでしょう。維持するためには、身体が必要で、脳と身体は切り離して考えるわけにはいかないのです。
このように、アンドロイドの研究は人を理解するためのものですが、実際どのようなことが研究からわかるのでしょう。
例えば、人間の「こころ」とは何でしょうか。
こころと言われて、みなさん心臓を指差す人もいれば、脳をさす人もいるでしょう。
「こころ」はどこにあるのか。「こころ」の実体はなんなのか。
石黒教授は、アンドロイドに演劇をさせました。
「アンドロイドの演技なんて面白くないだろう」と思うでしょう。
動きはプログラミングされていますので、なんどやっても同じ演技ができます。
しかも、人間の見た目、動きも人間らしい。そんなアンドロイドが演技するのです。
そして、そんなアンドロイド演劇を鑑賞した人は、なんと感動してしまうそうです。
アンドロイドがこころを持っているかのように、感じてしまうのです。
演技をするロボットのなかに、心のメカニズムがあるのではない。心とは、他者との関係性のなかで「感じられる」ものだ。心は、見るものの想像のなかにある。見る側の想像をどれだけ豊かにするかが、ロボットに心があると思わせるかどうか決めるのだ。それが、これからのロポットがひととかかわれるかどうかを左右する。
心には実体がない。実体がないのに「あるように見える」のは、複雑さを感じさせるからである。ロボットにしろ人間にしろ、ある程度以上に機構が複雑になると、なぜそれが動いているのか、いかにしてこんな動きをしているのかがわからなくなる。だから、そこに何かがある、と思いたくなるだけなのだ。
ほかにも、
コミューとソータというロボットがある。
これはアンドロイドというよりヒューマノイド。赤ん坊ていどのサイズ感のロボットです。
このロボットは、音声認識をしないでコミュニケーションを成立させます。
このように「音声認識なしで対話が成立する」ということを、ロボットを使って実践している研究室は、認知科学の分野どころか、僕ら以外にはどこにもいない。言語に関してこうした発想でやっている研究室は、ほかにいないだろう。
音声認識ゼロでも、ロボットと対話ができる。人間とロボットの間に必要なのは「会話している感」なのだ。こんなふうに自然に対話できる相手に「心がない」と思う人間はいない。やはり「心」はプログラミングできるのである。
石黒教授のアンドロイドたちは、高度なAI(人工知能)を用いていません。
人間らしい見た目、相づちなどで「こころ」を感じさせ、コミュニケーションを成り立たせています。
とはいえ、アンドロイドの将来には、AIは欠かせないでしょう。
人間の仕事の最大70%が人工知能にとって代わられる、ともいわれています。
人間のようにミスをせず、的確に仕事をこなし、コミュニケーションも上手い、そんなアンドロイドたちに自分の仕事をとられることを恐れている人も少なからずいるでしょう。
それについて、筆者はこのように述べています。
しかし考えてみてほしい。
これまでもさまざまな機械が、人の仕事に取って代わってきたではないか。
たとえば荷物を運ぶ仕事が、電車や飛行機、フォークリフトやダンプカーを使って行われるのが当たり前になった。計算は電卓やExcelにやらせるものになったし、世の中の家電の大半は、おおむかしなら奴隷が行っていた仕事を代わりにやらせているようなものだ。
であれば、なぜひとはロボットが人間の領域に踏み込んでくることに、おそれを抱くのか。
その前に考えなければいけないのは、そもそも「技術」とは何か、ということである。人間の能力、ひとがやってきた仕事を機械に置き換えるのが「技術」、テクノロジーの本質である。人間の手でやるにはめんどうくさいこと、時間がかかること、努力しなければいけないことを代わりに機械にやらせているわけだ。つまり、人間の能力から発想を得て技術や機械はつくられている。たとえ自動車やスマートフォンであっても、それらが人間のしてきた仕事を置き換えていることには違いない。
いつか、人間の働かない世界がやってくるのかもしれない。
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