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読んだ本メモ⑦ 「ロウソクの科学」ファラデー著、竹内敬人訳

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本書「ロウソクの科学」は、科学者ファラデーの行った青少年向けのクリスマス講演をまとめた講義録です。静電容量の単位やファラデーの法則に名を残すマイケル・ファラデーは、19世紀イギリスで活躍した科学者です。当時のイギリスは階級制度が厳しく、労働者階級に生まれたファラデーは読み書き程度の教育しか受けていません。そんなファラデー少年は製本工として働きながら、様々な学術本と触れ合うことで科学への興味を募らせることになります。夢をかなえて後世に名を残す偉大な科学者になるファラデーが、青少年が科学と触れ合う場を提供したのは、そうした自身の生い立ちがあったからこそでしょう。 産業革命が起き、工業化が進む当時のイギリスでは、ようやく理科教育の重要性が叫ばれるようになってきた、そんな時代です。理科教育の重要性を訴えた一人であるファラデーはこのような言葉を残しています。 ”教育の目的は、心を訓練して、前提から結論を導き、虚偽を見いだし、不適切な一般化を正し、推論に対しての誤りが大きくなるのをくい止められるようにすることです。これらは全く、教育がどのような精神で、どのような仕方でなされるかにかかっています。科学を高く評価することなく科学を教えるのは、百害あって一利なしです。造物主のつくられた全てのものを支配する法則、万物の統一性と安定性、物質の力の学習ほど教育の題材として適したものはありません。古典語教育中心の教育を受けてきた人々、つまり現行の制度の下で教育を受けてきた人々は、教育を終えた段階でも、自分たちが科学という重要な分野について無知であるということすら知らないようです。このようなことは優れた数学者にすら起こりうることです。…” 本書の内容にも少し触れましょう。「ロウソクの科学」というタイトルの通りで、ロウソクを題材に実験をしながら、科学を学んでいきます。ロウソクが燃焼する際の、化学反応、生成する気体、それらの性質を、実験を通して教えてくれます。家でもできるような簡易な実験から、当時発明されたばかりのボルタ電池使っての電気分解など、ワクワクで目を輝かしながら講演を聞く子供たちが目に浮かんできます。岩波文庫出版の本書には多くの注釈がついており、現代の大人が読んでも十分に関心を寄せられる内容でありますし、当時の時代背景も垣間見ることができます。 理科教育が義務化されて...

読んだ本メモ⑥ 「人間の土地」サン=テグジュペリ著 堀口大學訳

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間違いなく現代の名著。サン=テグジュペリが職業飛行家としての劇的な体験をもとに、人間の本然を示した作品です。カバー装画は宮崎駿さんが書かれたものです。 「星の王子様」で知られる著者が記す”勇敢さ”とは?”ヒロイズム”とは? 心に響く言葉が数多くあり、忘れないようにここに記したいと思います。 厳しい郵便飛行路の開拓の末、散って行った仲間を偲び、真の贅沢とはただ一つ、人間関係の贅沢であると語っています。 物質上の財宝を追うて働くことは、われとわが牢獄を築くことになる。人はそこへ孤独の自分を閉じ込める結果になる、生きるに値する何ものをも購うことのできない灰の銭をいだいて。 やはり仲間を思い、人間の責任と偉大さについて 彼もまた、彼らの枝葉で広い地平線を覆いつくす役割を引き受ける偉人の一人だった。人間であるということは、とりもなおさず責任を持つことだ。人間であるということは、自分には関係がないと思われるような不幸な出来事に対して忸怩たることだ。人間であるということは、自分の僚友が勝ち得た勝利を誇りとすることだ。人間であるということは、自分の石をそこに据えながら、世界の建設に加担していると感じることだ。… ぼくは死を軽んずることをたいしたことだとは思わない。その死がもし、自ら引き受けた責任の観念に深く根ざしていないかぎり、それは単なる貧弱さの表れ、若気のいたりにしかすぎない。 サハラ砂漠の真っ只中に不時着したサン=テグジュペリが、生還が絶望的である中で 人は人間の働きをしてみて、はじめて人間の苦悩を知る。人は風に、星々に、夜に、砂に、海に接する。人は自然の力に対して、策をめぐらす。人は夜明けを待つ、園丁が春を待つように。人は空港を待つ、約束の楽土のように。そして人は、人間の本然の姿を、星々のあいだにさがす。 戦争について なぜ憎しみあうのか?ぼくらは同じ地球によって運ばれる連帯責任者だ、同じ船の乗組員だ。新しい総合を生み出すために、各種の文化が対立することはいいことかもしれないが、これがお互いに憎しみあうにいたっては言語道断だ。 人間の役割とは? たとえ、どんなにそれが小さかろうと、ぼくらが、自分たちの役割を認識したとき、はじめて僕らは幸福になりうる、そのときはじめて、ぼくらは平和に生き、平和に死ぬことができる、なぜかというに、生命に意味...

読んだ本メモ⑤ 「生物から見た世界」ユスキュル/クリサート著、日高敏隆・羽田節子訳

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甲虫の羽音とチョウの舞う、花咲く野原へ出かけよう。生物たちが独自の知覚と行動で作り出す<環世界>の多様さ。この本は動物の感覚から知覚へ、行動への作用を探り、生き物の世界像を知る旅にいざなう。行動は刺激に対する物理反応ではなく、環世界あってのものだと唱えた最初の人ユスキュルの、今なお新鮮な科学の古典。 岩波文庫のとびらにはそう紹介されています。 <環世界>とは聞きなれない言葉ですが、これは客観的な環境ではなく、主観的な環境のこと。著者のユスキュルはそれぞれの主体が環境の中の諸物に意味を与えて作り上げている世界をドイツ語でUmweltと呼びました。それを本書では環世界という訳語を与えています。 われわれは、この世界をあるがままの姿で、捉えているのでしょうか?私たち人間は、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚という五感を通して世界を知覚しています。視覚で捉えられるのは、可視光線と呼ばれる帯域の光線のみで、紫外線や赤外線は目で見ることはできません。聴覚にも可聴範囲があります。同様に、各々の感覚には限界があります。そして、生物によっては、感覚の機能からその特性まで、実に様々です。本書でも、 われわれはともすれば、人間以外の主体とその環世界との事物との関係が、われわれ人間と人間世界の事物とを結びつけている関係と同じ空間、同じ時間に生じるという幻想にとらわれがちである。この幻想は、世界は一つしかなく、そこにあらゆる生物がつめこまれている、という信念によって培われている。すべての生物には同じ空間、同じ時間しかないはずだという一般に抱かれている確信はここから生まれる。 と書かれているように、空間や時間は生物にとって等しく存在するものではないことが指摘されています。これは、感覚器官の性能には生物種によって異なるということが原因の一つと考えれれます。視覚について考えてみると、どれだけの画質でものを捉えているのか(空間分解能)、どれだけ速いものを見れるのか(時間分解能)によって、空間と時間は決定されていると考えられます。当然、小さすぎたり、速すぎたりすることで目に見えないものがあるわけです。そういったものは人間の環世界では存在しないものとなるわけです。 本書では様々な角度から、生物によって環世界がいかに異なっているかを教えてくれます。種によって、時には同種の個体によってさ...

読んだ本メモ④ 「キャッチャー・イン・ザ・ライ」J.D.Salinger著、村上春樹訳

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結構前になると思いますが、村上春樹が新訳を出したということで話題になっていました。 今更ながら、読んでみました。 そもそも、本作は「ライ麦畑でつかまえて」という邦題で出版されていたということは、多くの方がご存知かと思います。私は、「ライ麦畑でつかまえて」を読んだことはなかったのですが、そのタイトルから勝手に恋愛小説だと思い込んでいました。だけど、実際は高校を退学になった16歳のホールデンが打ち明け話を語るというもの。 「ライ麦畑でつかまえて」というのは、実に魅力的なタイトルだけど、意訳しすぎだし、村上春樹がタイトルを原著のままで、新訳を出版したことに納得します。 主人公のホールデンは、もう子供ではないが、大人にもなりきれていないそんな16歳。頭は悪くないみたいだけど、勉強なんてする気はない。世の中のもの、すべてに難癖をつけて、くだらないと周りの人間を軽蔑している、そんな少年です。将来何になりたいかと妹に尋ねられた彼はこう言うのである。 「でもとにかくさ、だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、小さな子どもたちがいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、僕はいつも思い浮かべちまうんだ。何千人もの子どもたちがいるんだけど、ほかには誰もいない。つまりちゃんとした大人みたいなのは一人もいないんだよ。僕のほかにはね。それで僕はそのへんのクレイジーな崖っぷちに立っているわけさ。で、僕がそこで何をするかっていうとさ、誰かその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。つまりさ、よく前を見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチするんだ。そういうのを朝から晩までずっとやっている。ライ麦畑のキャッチャー、ぼくはただそういうものになりたいんだ。」 この作品は、ホールデンが僕らに打ち明けるように、語り続けるという構成になってますが、半分くらいまで読み進んだころ、私は徐々にホールデンにイライラしてきてしまった。周りにケチばっかつけて、自分は知的ぶっていて。 そこで、実際にこういう少年と出会ったら、どうするか考えてみることにしました。 救いようのない奴だと、話を切り上げることもできる。しかし、どうしようもない自分の話を誰かに聞いてほしいときもある、ここは我慢して聞いてやろうか。とそんな...