読んだ本メモ⑩ 「生命とは何か 物理的に見た生細胞」 シュレディンガー著 岡小天・鎮目恭夫訳
ついに読んでみました。量子力学の巨人、シュレディンガーの名著。
生物系の研究者なら、読むべき一冊かと思い読みました。
結論から言うと、私には消化しきれない…
新しい学問を創造するとは、こういうことなのか、ということだけはわかりました笑
この本を、レビューすることは到底できなそうなので、
気になった内容をいくつか、備忘録として残します。
なぜ原子は小さいのか、むしろなぜ生物は原子に対してこれほどまでに大きくできているのか。
生命活動は秩序。原子の集合が秩序を生み出すには、必要な大きさ。
脳およびそれに付随した感覚系のような器官は、それに物理的な変化が行われる状態が、高度に発達した思考と密接に対応するためには、なぜ必ず莫大な数の原子から成り立っていなければならないのでしょうか?かかる器官のこのような任務が、この器官が全体としてあるいは環境と直接に相互作用する抹消部分の一部において、外界からくるただ一個の原子の衝突に対し反応を示しその影響をとどめるに足るほど精緻で敏感な仕掛けになっていることと両立しないのは、一体如何なる根拠によるのでしょうか?
その答えは、われわれが思考と呼ぶところのものは、(1)それ自身秩序正しいものであること、(2)或る一定度の秩序正しさを具えた知覚あるいは経験のみを対象とし、そのような素材のみに適用されること、であります。このことから、次の二つの結論がひき出されます。第一に、一つの物質組織が思考と密接に対応するためには(私の脳髄が私の思考と対応するように)、それは非常にきちんとした秩序のある組織でなければなりません。このことは、その中で起こる事象が少なくともはなはだ高い精度で厳密な物理的法則に従うべきことを意味します。第二に、このように物理的にきちんとした秩序ある体系に対して、ほかの物体により外界から加えられた物理的作用は、それに応ずる思考の素材(対象)になる知覚や経験に対応することは明らかです。
お前たちはゆらぐ現象として漂っているものを持久する思惟でつなぎとめておくがよい。

生物系の研究者なら、読むべき一冊かと思い読みました。
結論から言うと、私には消化しきれない…
新しい学問を創造するとは、こういうことなのか、ということだけはわかりました笑
この本を、レビューすることは到底できなそうなので、
気になった内容をいくつか、備忘録として残します。
なぜ原子は小さいのか、むしろなぜ生物は原子に対してこれほどまでに大きくできているのか。
生命活動は秩序。原子の集合が秩序を生み出すには、必要な大きさ。
脳およびそれに付随した感覚系のような器官は、それに物理的な変化が行われる状態が、高度に発達した思考と密接に対応するためには、なぜ必ず莫大な数の原子から成り立っていなければならないのでしょうか?かかる器官のこのような任務が、この器官が全体としてあるいは環境と直接に相互作用する抹消部分の一部において、外界からくるただ一個の原子の衝突に対し反応を示しその影響をとどめるに足るほど精緻で敏感な仕掛けになっていることと両立しないのは、一体如何なる根拠によるのでしょうか?
その答えは、われわれが思考と呼ぶところのものは、(1)それ自身秩序正しいものであること、(2)或る一定度の秩序正しさを具えた知覚あるいは経験のみを対象とし、そのような素材のみに適用されること、であります。このことから、次の二つの結論がひき出されます。第一に、一つの物質組織が思考と密接に対応するためには(私の脳髄が私の思考と対応するように)、それは非常にきちんとした秩序のある組織でなければなりません。このことは、その中で起こる事象が少なくともはなはだ高い精度で厳密な物理的法則に従うべきことを意味します。第二に、このように物理的にきちんとした秩序ある体系に対して、ほかの物体により外界から加えられた物理的作用は、それに応ずる思考の素材(対象)になる知覚や経験に対応することは明らかです。
お前たちはゆらぐ現象として漂っているものを持久する思惟でつなぎとめておくがよい。
ゲーテ
もし決して自己矛盾に陥らない人があるならば、それは事実上まったく何も言わなかった人だからに違いない。
ミゲル・デ・ウナムーノの言葉から
(1)私のからだは自然法則に従って、一つの純粋な機械仕掛けとして働きを営んでいる。
(2)にもかかわらず、私は私がその運動の支配者であり、その運動の結果を予見し、その結果が生命にかかわる重大なものである場合には、その全責任を感ずると同時に実際全責任を負っている、ということを疑う余地のない直接の経験によって知っている。
右の二つのことがらから推して考えられる唯一の結論は、私―最も広い意味での私、すなわち今までに「私」であると言いまたは「私」であると感じたあらゆる意識的な心―は、とにかく「原子の運動」を自然法則に従って制御する人間である、ということだと思います。
中略
右に述べた結論は、生物学者が神と(霊魂の)不滅とを一挙に証明しようとして到達しうる結論に最も近いものではないかどうかを考えてみましょう。
中略
古代インド哲学の聖典ウパニシャッドのつくられた時代の初期から、「人と天とは一致する」(アートマン=ブラーフマン。人間の自我は普遍的な全宇宙を包括する永遠性それ自体に等しい)という認識がインドの哲学思想において、神を冒瀆するものどこおろか森羅万象の最も深い洞察の真髄であると考えられていました。
※「梵(ブラーフマン)我(アートマン)一致」。梵とは、一切の現象の背後にある本体を思索により追究した結果到達した観念で、宇宙の第一原理を意味する。アートマンとは語義は「呼吸」ということで、これが「生命」、「意識」という言葉になり、進んで「他者」と区別した「自己」を意味する「自我」となり、ついに、万物を想像する超個人我という観念が生まれ、梵と同一視されるようになった。
訳者あとがきより
瞑想中のチベット仏教僧と祈祷中のカトリック尼僧の脳の諸部位の活動状態をある種の断面画像作成装置を使って観察した。前者の瞑想は座禅やヨーガによって意識を無我状態にすること、後者の祈祷は十字架のイエスを心に浮かべてそれに意識を集中することだそうだ。著者(『Why God Won't Go Away』脳科学者A・ニューバーグ、2001年)は、高僧がその瞑想や祈祷をしている最中には本人の大脳の頭頂葉の上側後部(著者がオリエンテーション連合野と呼ぶ領域)の神経細胞の活動が停止することを発見し、これは強度の意識的な瞑想や祈祷によって脳のその領域の神経組織への神経入力が断絶するためだという見解と、その結果脳の活動が停止することによって、本人は自分の身体が空間のどんな場所にどんな方向に向いて位置しているのかが分からなくなるのだという見解を述べている。脳内の物理的状態がそのようになれば、本人にとっては、物理的空間のうち自分の身体が占める領域の内側と外側の境界がぼやけ、自分の身体が宇宙空間へ漠然と希薄化しつつ拡大してゆき、遂には自分の身体が宇宙と一致してしまったというような意識状態になるだろう。
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