脳科学と哲学つらつら

思ったことを、しゃべるように脈絡なく…


現代では、自然科学を研究する人のことを科学者と呼びますけど、それは学問が細分化されていく過程でそうなっただけであって、今でいう自然科学で取り上げるものも、人文系で取り上げるものも、古代ではソクラテスだったりプラトンだったりが、等しく議論していたわけだ。
その人たちを我々は哲学者とか思想家って呼びます。ということで、哲学っていうは、すべての学問の祖先みたいなものだと僕は考えるわけです。今でこそ、学問は細分化され、それぞれの分野に専門家がいて、つまり分業制で、それでもってすさまじい勢いで発展してきたわけですけど、そんなの人類の歴史で言ったらここ最近の話。


いろいろと考えていると、なんだか哲学的な問いに辿りついてしまうんです。高校生のとき、哲学なんてあらゆる学問の中で一番嫌いだった。よくわからん言葉で語られた、なんの役にも立たなそうな、そして退屈なもので。
でも、一応私の専門である神経科学においては(特に脳を扱うことって)、細分化された自然科学の一分野としてできたはずなのに、突き詰めていくと哲学になってしまうと思うんですよね。脳科学って実はその時点で、逆説的というかパラドックスに陥っていて、考えているそれ自体が脳のなせる業なのだから、解くべき対象と解くためのツールが一緒ってことになります、まったく無理な話です。そういうパラドックスって結構いろんな場面に存在している気もするんですけど、脳科学ってその究極的なものかなぁと。


今後、計測技術が益々発達して、たとえば神経細胞一つ一つの活動が、リアルタイムに計測できるなんてことが実現したら、いろんなことがわかるでしょうし、大いに脳科学は発展するでしょう。
ですが、結局、そういった神経細胞の活動の結果として、なんで我々は考えたり、感じたり、しているのかというのを理解したことになるのでしょうか。
いわゆる意識ってなに?とか、質感(クオリア)って?って話だと思いますが、人間の脳で考えている以上、答えが出ないのはしょうがないのかもしれません。(僕はその手の本を読んだことがないので見当違いかもしれませんが…)


たとえば、いくらコンピュータが発達して、人の気持ちも理解できて、学習もできる人工知能ができたからって、じゃあその人工知能が人間と同じように感じているなんて人間は誰も考えなくて、「それはそうプログラミングされているから」と、「人間とコンピュータは違うよ」と考えるわけです。
でも、その違いってなんなんでしょう。そもそもその違いって本当にあるのか??

もし、全く人間の脳とは異なる様式で、物事を理解し感じることができる何か存在があったとして(それを人は神と呼ぶのでしょうか?)、その存在から見たら、もしかすると人間の脳も精巧に作られた人工知能も、情報をやり取りする媒体が、ニューロンなのか、はたまた電子媒体なのかの違いだけで、働きとしては一緒だととらえられてしまう可能性もあるんじゃないの?
人間は精神のようなものが自分にあると感じて、どんな科学者だって、生物が機械的な営みの集合だと割り切ることはできないでいると思いますが。それと同様に、精巧に作られた人工知能自身は、もしかすると精神が自分にあると感じているかもしれません。(人間と同じように、反応し学習するような人工知能なら、人間から見ても心があると感じる人もいるでしょう。ドラえもんを想像すれば容易いですね。)人間はそれがプログラミングされた結果だと知ってはいますが。
究極的な機械論に立ってみれば、人間を自分では精神があると思っている精巧に作られたシステムととらえることも可能。でも、そうとはなりきれないからこそ、脳科学の命題は残り続け、哲学的な論考は依然としてあり続ける、人間が存在する限り。

生物が人工知能と違うところは、自分で設計図(遺伝子)を持っていて、それは世代というものを通して、書き換えられてきた(進化)。もしかしたら、そういう人工知能も設計できなくはないかもしれませんが。


そんなことを考えながらも、僕は喜怒哀楽を感じるし、死にたくないし、人生を充実させたい。“精神”の赴くままに。

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