読んだ本メモ⑰ 「サブリミナル・マインド 潜在的人間観のゆくえ」 下條信輔著 中公新書
今回の講義の最終的なメッセージとして大事なことは、次のことです。つまり人の心が顕在的・明証的・自覚的・意識的な過程だけでなく、潜在的・暗黙的・無自覚的・無意識的な過程にも強く依存しているということ。さらに忘れてならないのは、動物の進化の過程を見ても人の発達の過程を見ても、暗黙知がつねに先立ち、明証的な知の基礎となっていることです。
と本書の冒頭にて書かれている。
タイトルの「サブリミナル」は日本語で「意識下の」という意味。
ヒトの脳活動のなかで、意識にのぼるものはほんの一部だけ。まさに氷山の一角。
いや氷山の場合は約一割が見えるので(水面上)、氷山のそれ以上に見えない部分は広大だ。
意識的な思考はしばしば言語を伴う。
しかし、だからといって言語を持たない動物に思考がないわけではないだろう。人間が成長すると幼児期の記憶をなくしてしまうのは、言語を介した思考か否かというところに関わっている。
赤ん坊のころには、暗黙的な学習(手続き記憶)をしており、成長とともに明証化(宣言的記憶)が可能になる。これが、筆者のいう「暗黙知がつねに先立ち、明証的な知の基礎となっている」という意味だ。
では、大人になった我々は常に明証的・意識的に思考・行動しているのだろうか。
本書は、そればかりではない「潜在的人間観」について語ってくれる。
どんなに好きでも、職業にして報酬をもらうようになるとつまらなくなる
とよく言われている。このことは、「ほうびの隠れたコスト」として実験的に証明されている(レッパーとニスベット、1978年)。「絵をかくのが好きなこどもに、あらかじめ報酬を約束して絵を描かせると、自発的には絵を描かなくなり、絵の質も落ちてしまう (中略) もともと面白い仕事でも、過度の外的報酬によってかえってつまらなくなるというわけです。言い替えれば、外的正当化のせいで、本来存在していたはずの内発的動機づけが損なわれたのです。」ごほうびというものは、そのものの本来の面白さを損なうというコストが付きまとうというわけだ。
また、「コスト」が内容を面白くする場合もある。「入会儀礼効果」(アロンソンとミルズ、1959年)がその好例だ。「大学の部や同好会など何でもよいのですが、同好の士が自発的に集まる会では、入会のために審査やテストをやる場合があるでしょう。そのときに入会の条件やテストが厳しいほど、入ってからの活動内容が同じであっても、より面白く感じられるという効果です。」これは、高価な商品を買う際にも同じことが言える。「払った犠牲が大きいほど、その結果得たものがつまらないとは認めにくいものです。無自覚のうちに、つじつま合わせ=不協和低減の力が働いて、面白い、価値があると思い込んでしまうのです。」
悲しいから泣くのか?泣くから悲しいのか?
なぜあの人は泣いているのだろうか?悲しいから泣いているのだろう。
これはいたって普通。当たり前のこと。私たちは、怖いから逃げるし、楽しいから笑うし、悲しいから泣くのだ。ジェームズとランゲはこれに真っ向から反対する説を提唱した。情動の経験に身体の変化が先立つという「情動の末梢説」だ。後の研究者によって修正されてはいるものの、大筋この説はみとめられている。“表情”や“身構え”が先立って、その後情動が変化するということが実験的に証明されている。さらには、被験者の顔の表情をコントロールするような実験もおこなわれており、情動が表情に引きずられることが示されている。「笑う門には福来る」は実験心理学的根拠にも基づいているというわけだ。
もうひとりの私
てんかんなどの治療のために、分割脳という治療がおこなわれることがある。左右の大脳を連絡する通路である脳梁を切断する治療だ。これをおこなうと左右の半球間で視覚情報の統合が出来なくなる。こういった患者では、右視野に絵や単語を見せたときには、言葉で答えることが出来る。しかし、左視野に呈示した場合には、答えることが出来ない(言語処理が左半球でおこなわれるため、詳しくは本書参照)。しかし、言葉では答えられなくても行動にはできるのだ。「たとえば、視野の右側に「かぎ」という語を呈示した直後に「今何が見えたか」とたずねると、患者はもちろん「かぎという単語が見えた」と答え、それと同時に右手はテーブル上をさぐって鍵をつまみあげました。右視野の情報は言語中枢のある左半球に直接入力されるのだから、これは当然です。しかし単語を視野の左側に瞬間呈示したときには、患者は今何が見えたかを答えることができません。「何も見えなかった」「何かあったようだが・・・」といった答えしかできないのです。にもかかわらず、左手はちゃんとテーブル上を動いて鍵をさぐり当て、つまみあげることができます。」
分離脳患者では、左右の脳はそれぞれ独立に認知し、判断し、行動をしている。これはなにも患者に限ったことではなく、私たちの心は、「完全に統合されていない多次元的なシステムなのです。つまり、心とはひとつの心理的実体ではなくて、いくつかのサブシステムからなる社会学的な実体なのです。」
私は私で、他人ではない
似たようなタイトルの歌もあったが、
「私の私としての連続性は何によって保証されているのか? この人格の「同一性」の問題は、煎じつめると記憶の問題に突き当たります。私は昨日何をしたか。今朝朝食にパンを食べたのは私であって、彼ではない。このような記憶が「私」の人格としての同一性、連続性を支えているようです。」
しかし、記憶とはやっかいなもの。忘れるということはどういうことなのか。
本書では、潜在記憶と呼ばれる、覚えていることの自覚のない記憶過程を紐解きつつ、記憶について迫っている。
本書では、「潜在的な人間観」について、これまでの研究から得られている知見と日常的に私たちが経験している卑近な例を交えつつ、解説してくれている。
サブリミナルと聞くと、サブリミナル広告を思い起こすが、広告だけでなく潜在的な人間観は現代社会のさまざまな場面に深くかかわっている。自由な意思とはなんなのだろうか。いろいろと考えさせられてしまうが、自己とそれを取り巻く環境、潜在と顕在、すべては相互作用なのだ。
その結果、形作られれているものが自己であって、そうじゃない自分はもはや自分じゃない。

と本書の冒頭にて書かれている。
タイトルの「サブリミナル」は日本語で「意識下の」という意味。
ヒトの脳活動のなかで、意識にのぼるものはほんの一部だけ。まさに氷山の一角。
いや氷山の場合は約一割が見えるので(水面上)、氷山のそれ以上に見えない部分は広大だ。
意識的な思考はしばしば言語を伴う。
しかし、だからといって言語を持たない動物に思考がないわけではないだろう。人間が成長すると幼児期の記憶をなくしてしまうのは、言語を介した思考か否かというところに関わっている。
赤ん坊のころには、暗黙的な学習(手続き記憶)をしており、成長とともに明証化(宣言的記憶)が可能になる。これが、筆者のいう「暗黙知がつねに先立ち、明証的な知の基礎となっている」という意味だ。
では、大人になった我々は常に明証的・意識的に思考・行動しているのだろうか。
本書は、そればかりではない「潜在的人間観」について語ってくれる。
どんなに好きでも、職業にして報酬をもらうようになるとつまらなくなる
とよく言われている。このことは、「ほうびの隠れたコスト」として実験的に証明されている(レッパーとニスベット、1978年)。「絵をかくのが好きなこどもに、あらかじめ報酬を約束して絵を描かせると、自発的には絵を描かなくなり、絵の質も落ちてしまう (中略) もともと面白い仕事でも、過度の外的報酬によってかえってつまらなくなるというわけです。言い替えれば、外的正当化のせいで、本来存在していたはずの内発的動機づけが損なわれたのです。」ごほうびというものは、そのものの本来の面白さを損なうというコストが付きまとうというわけだ。
また、「コスト」が内容を面白くする場合もある。「入会儀礼効果」(アロンソンとミルズ、1959年)がその好例だ。「大学の部や同好会など何でもよいのですが、同好の士が自発的に集まる会では、入会のために審査やテストをやる場合があるでしょう。そのときに入会の条件やテストが厳しいほど、入ってからの活動内容が同じであっても、より面白く感じられるという効果です。」これは、高価な商品を買う際にも同じことが言える。「払った犠牲が大きいほど、その結果得たものがつまらないとは認めにくいものです。無自覚のうちに、つじつま合わせ=不協和低減の力が働いて、面白い、価値があると思い込んでしまうのです。」
悲しいから泣くのか?泣くから悲しいのか?
なぜあの人は泣いているのだろうか?悲しいから泣いているのだろう。
これはいたって普通。当たり前のこと。私たちは、怖いから逃げるし、楽しいから笑うし、悲しいから泣くのだ。ジェームズとランゲはこれに真っ向から反対する説を提唱した。情動の経験に身体の変化が先立つという「情動の末梢説」だ。後の研究者によって修正されてはいるものの、大筋この説はみとめられている。“表情”や“身構え”が先立って、その後情動が変化するということが実験的に証明されている。さらには、被験者の顔の表情をコントロールするような実験もおこなわれており、情動が表情に引きずられることが示されている。「笑う門には福来る」は実験心理学的根拠にも基づいているというわけだ。
もうひとりの私
てんかんなどの治療のために、分割脳という治療がおこなわれることがある。左右の大脳を連絡する通路である脳梁を切断する治療だ。これをおこなうと左右の半球間で視覚情報の統合が出来なくなる。こういった患者では、右視野に絵や単語を見せたときには、言葉で答えることが出来る。しかし、左視野に呈示した場合には、答えることが出来ない(言語処理が左半球でおこなわれるため、詳しくは本書参照)。しかし、言葉では答えられなくても行動にはできるのだ。「たとえば、視野の右側に「かぎ」という語を呈示した直後に「今何が見えたか」とたずねると、患者はもちろん「かぎという単語が見えた」と答え、それと同時に右手はテーブル上をさぐって鍵をつまみあげました。右視野の情報は言語中枢のある左半球に直接入力されるのだから、これは当然です。しかし単語を視野の左側に瞬間呈示したときには、患者は今何が見えたかを答えることができません。「何も見えなかった」「何かあったようだが・・・」といった答えしかできないのです。にもかかわらず、左手はちゃんとテーブル上を動いて鍵をさぐり当て、つまみあげることができます。」
分離脳患者では、左右の脳はそれぞれ独立に認知し、判断し、行動をしている。これはなにも患者に限ったことではなく、私たちの心は、「完全に統合されていない多次元的なシステムなのです。つまり、心とはひとつの心理的実体ではなくて、いくつかのサブシステムからなる社会学的な実体なのです。」
私は私で、他人ではない
似たようなタイトルの歌もあったが、
「私の私としての連続性は何によって保証されているのか? この人格の「同一性」の問題は、煎じつめると記憶の問題に突き当たります。私は昨日何をしたか。今朝朝食にパンを食べたのは私であって、彼ではない。このような記憶が「私」の人格としての同一性、連続性を支えているようです。」
しかし、記憶とはやっかいなもの。忘れるということはどういうことなのか。
本書では、潜在記憶と呼ばれる、覚えていることの自覚のない記憶過程を紐解きつつ、記憶について迫っている。
本書では、「潜在的な人間観」について、これまでの研究から得られている知見と日常的に私たちが経験している卑近な例を交えつつ、解説してくれている。
サブリミナルと聞くと、サブリミナル広告を思い起こすが、広告だけでなく潜在的な人間観は現代社会のさまざまな場面に深くかかわっている。自由な意思とはなんなのだろうか。いろいろと考えさせられてしまうが、自己とそれを取り巻く環境、潜在と顕在、すべては相互作用なのだ。
その結果、形作られれているものが自己であって、そうじゃない自分はもはや自分じゃない。
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