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後頭頂葉へのtDCS(経頭蓋直流電気刺激)による空間的定位の変調

読んで面白かった論文について 今回読んだのは、原題を "Transcranial direct current stimulation over posterior parietal cortex modulates visuospatial localization" 日本語にすると「後頭頂葉へのtDCS(経頭蓋直流電気刺激)は視覚空間的定位を変調させる」とでもなりますか。 Journal of Vision に今年掲載された論文です。 http://www.journalofvision.org/content/14/9/5.short この論文はタイトルには注意(attention)とは一言もありませんが、注意による効果を外的に発生させており、注意の神経機構を説明する一つのアイデアを提供しています。 まず、tDCSとは頭皮上から非侵襲的に大脳皮質に刺激を与える手法で、刺激の与え方によって電極下の大脳皮質の興奮性を上げ下げすることができると言われています。 そして、後頭頂葉という大脳の後頭にある部位は、視覚の処理にとても重要な役割を担っており、空間の認識や、視覚的な注意に関与しています。そして、左脳の後頭頂葉では視野の右側を、右脳の後頭頂葉は視野の左側の処理を行っています。 この研究では、tDCSによって右後頭頂葉の興奮性を下げたときに、大きく定位に変化が起きています。この時の定位の変化とは、実験参加者は左視野に見える物体の位置を、実際よりも右方向に位置していたと感じたということなります。これは、右視野への注意が促されていたときに起こる変化と同様なことが知られています。 直感的には、右への注意を促すためには、 右視野 を支配している 左後頭頂葉 の興奮性を 上げる べきと考えられると思います。しかし、この実験では、 左視野 を支配している 右後頭頂葉 の興奮性を 下げる ことで、結果的に右への注意が促されたと同等の結果を得ています。 これは、左右大脳半球間のバランスが関係しています。視覚に関わらず、半球間抑制と言われる神経活動が大脳皮質にはあることが知られています。左の大脳皮質が活動する際には、右へ抑制のシグナルが、右の大脳皮質が活動する際には、左へ抑制のシグナルが送られています。 経験的にも、左右の手を全...

認知神経科学に片足つっこむ

最近、読書量が減っていたせいもあって書評を投稿できていない。 そのかわり研究関連の読書(専門書や論文)で、得た知識もメモしていこう。 自分の研究領域は、ヒトの神経系の中でも運動に関わるものが対象 専門は何ですか?と聞かれれば、神経生理学とか運動生理学と答える。 でもヒトの脳ってもちろん、体を動かすためだけではなくて、喜怒哀楽を感じたり、想像したり、見たり、聞いたり、…いろんなことをしているわけで、しかも、それらは独立で起こっているのでなく、密接に絡み合った結果、人は行動している。 学問は、どんどん細分化されて、その学問のなかでの法則を見つけることが重要なんだけど、 もう少し視野を広げたら、もっと面白いし、これから益々学問間のインタラクションが大事になってくる。 そうしたときに、神経科学って本当にいろんな人が関わっていて、僕みたいな理工系の人間は割と珍しい方で、医学とか、心理学とか、スポーツ科学とか… 異分野をつなげる研究がとてもしやすいものだと思う。 といいつつ、ただ認知科学に興味をもったので、最近勉強をしている。 僕が自分の研究に取り入れようとしているのは、”注意(Attention)” 注意が何なのかってことは誰もが知っていて、普段何気なく行っている。 運動に関しても、注意は重要なファクターだ。注意することで、巧緻性をあげたり、反応を早めたりできるってことは日常生活の経験から容易に頷ける。 注意というものは、心理学や認知科学の古典的なテーマ。 これまでどんな研究がされてきたのか。まずはリサーチしようってなことで勉強をはじめた。 注意を説明するときに、フィルターとかスポットライトという言葉が使われる。 これは、注意の機能として、多くの情報(視覚、聴覚、触覚…)から一つを選択しているということを表現している。注意研究が盛んにされるようになったきっかけが、Cherry(1953)によるカクテルパーティ効果の発見である。様々な人の声が飛び交うなか、注意を向けた人の声だけが認識できるというあれだ。これは両耳分離聴(dichotic listening)という手法を使って実験的に示された。左右の耳に異なる聴覚情報を聞かせ、一方の耳に与えられた情報に注意を向けさせるために、追唱(shadowing)をさせる。その結果、追唱しな...

読んだ本メモ⑨ 「ペンギンもクジラも秒速2メートルで泳ぐ」 佐藤克文著

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東京大学海洋研究所の教授である佐藤克文氏はバイオロギングと呼ばれる研究分野の第一人者です。本書の副題「ハイテク海洋動物学への招待」というように、野生のペンギンやアザラシにデータロガーと呼ばれるハイテク装置を装着し、得られたデータをもとに海洋動物の生態を明らかにしようという研究分野です。本書では著者がこれまでおこなってきた研究の成果を紹介しながら、建前ではない研究の実態と教科書の中のウソがテーマになっています。 タイトルの通り、「ペンギンもクジラも秒速2メートルで泳ぐ」んだそうです。データロガーから得られた加速度情報によって明らかになった事実です。1950年にイギリスの筋肉生理学者ヒル博士は「幾何学的に相似な動物は、体の大きさにかかわらず、同じ速度で走り、同じ速度で泳ぐであろう」という予測を立てたそうです。半世紀以上に提唱された予測ですが、海洋動物については計測が難しいこともあり、詳細は調べられていませんでした。それを可能にしたのが、データロガーであり、日本が世界をリードしている研究分野がバイオロギングサイエンスなのです。 登場する海洋動物は、ウミガメに始まり、ペンギン、アザラシなど。データロガーで計測するものは、加速度、温度、照度、画像… 目的とする動物はなにか、何を計測したらよいのか。ウミガメの体温調節についてこういう仮説が考えられて、その仮説を検証するためにこの情報が必要だから、今度はこのセンサを装着しよう。そして、計測の結果、仮説を裏付けるデータが得られて、新しい論文を発表できた! というストーリーはあくまで建前で、研究の実態は、試行錯誤の連続、データが当初の目的には使えず、なんとか転用することで新しい発見をできた、ということもあったそうです。現代の科学は、仮説検証型と言われるように、これまでの先行研究の結果をもとに仮説を立て、それを検証するために実験を行うというのが基本です。しかし、野生動物相手のバイオロギングでは、そうも言ってられない。著者は、そうした研究の舞台裏を正直に明かしています。 そして、「教科書の中のウソ」とは? 私たちはまず小学校にはいり、その後、中学校という義務教育を終えた後、高等学校、大学へと進学する。それぞれ、学校という文字の前に、小・中・高等・大という文字が付いているが、これはそれぞれの学校で...

読んだ本メモ⑧ 「生物と無生物のあいだ」 福岡伸一著

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実はいまだに読んでいなかったこの本。いまさらながら読んでみました。 福岡伸一さんの本でも最も読まれている一冊ではないでしょうか。 「生物と無生物のあいだ」は生物学の深遠さを教えてくれる一冊ですが、本当に読みやすく書かれているというのが一番の印象です。科学者でありながら、これほど情緒ある文章を書く人はなかなかいないと思います。いつか自分もこういう本を書けるようになりたい。福岡さんのポスドク時代を振り返りながら語られる、ニューヨークやボストンの街は、自分の肌に感じるほど情景豊かです。 本書で語られている生物学の基礎知識(DNAの二重らせん、PCR、ノックアウト実験など)は、大学で生命科学系の教育を受けた私にとっては、嫌というほど授業に登場する馴染みのものでしたが、それらを見つけ出した偉大な科学者たちの人となりや、世紀の発見に潜むドラマについてはまったく知りませんでした。 DNAの二重らせんの発見者、ワトソンとクリックが論文にさりげなくこう記述しています。 この対構造が直ちに自己複製機構を示唆することに私たちが気づいていないわけではない 学術論文というものは、自分の主張を押し出し、すきのない理論武装で固めるもので、こんなあいまいな(意味するところはむしろこの方が伝わりますが)書き方をするというのは大変驚きで、ロマンを掻き立ててくれます。 ワトソンとクリックに限らず、生物学の新しい幕開けを先導した科学者たちのエピソードはどれも必見です。 ”生命とは何か”、物理学者のシュレディンガーが最後に取り組んだ問いです。あまねく物質はエントロピー最大の方向(乱雑さが増える)へ進みます。しかし、生物は一定期間、エントロピーの増大を免れ、その系の中に秩序を作ります。息をし食物を摂取し、再生を繰り返し、そこに形をとどめる、それが生きているという状態です。 つまり生命は、「現に存在する秩序がその秩序自身を維持していく能力と秩序ある現象を新たに生み出す能力をもっている」ということになる。

読んだ本メモ⑦ 「ロウソクの科学」ファラデー著、竹内敬人訳

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本書「ロウソクの科学」は、科学者ファラデーの行った青少年向けのクリスマス講演をまとめた講義録です。静電容量の単位やファラデーの法則に名を残すマイケル・ファラデーは、19世紀イギリスで活躍した科学者です。当時のイギリスは階級制度が厳しく、労働者階級に生まれたファラデーは読み書き程度の教育しか受けていません。そんなファラデー少年は製本工として働きながら、様々な学術本と触れ合うことで科学への興味を募らせることになります。夢をかなえて後世に名を残す偉大な科学者になるファラデーが、青少年が科学と触れ合う場を提供したのは、そうした自身の生い立ちがあったからこそでしょう。 産業革命が起き、工業化が進む当時のイギリスでは、ようやく理科教育の重要性が叫ばれるようになってきた、そんな時代です。理科教育の重要性を訴えた一人であるファラデーはこのような言葉を残しています。 ”教育の目的は、心を訓練して、前提から結論を導き、虚偽を見いだし、不適切な一般化を正し、推論に対しての誤りが大きくなるのをくい止められるようにすることです。これらは全く、教育がどのような精神で、どのような仕方でなされるかにかかっています。科学を高く評価することなく科学を教えるのは、百害あって一利なしです。造物主のつくられた全てのものを支配する法則、万物の統一性と安定性、物質の力の学習ほど教育の題材として適したものはありません。古典語教育中心の教育を受けてきた人々、つまり現行の制度の下で教育を受けてきた人々は、教育を終えた段階でも、自分たちが科学という重要な分野について無知であるということすら知らないようです。このようなことは優れた数学者にすら起こりうることです。…” 本書の内容にも少し触れましょう。「ロウソクの科学」というタイトルの通りで、ロウソクを題材に実験をしながら、科学を学んでいきます。ロウソクが燃焼する際の、化学反応、生成する気体、それらの性質を、実験を通して教えてくれます。家でもできるような簡易な実験から、当時発明されたばかりのボルタ電池使っての電気分解など、ワクワクで目を輝かしながら講演を聞く子供たちが目に浮かんできます。岩波文庫出版の本書には多くの注釈がついており、現代の大人が読んでも十分に関心を寄せられる内容でありますし、当時の時代背景も垣間見ることができます。 理科教育が義務化されて...

読んだ本メモ⑥ 「人間の土地」サン=テグジュペリ著 堀口大學訳

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間違いなく現代の名著。サン=テグジュペリが職業飛行家としての劇的な体験をもとに、人間の本然を示した作品です。カバー装画は宮崎駿さんが書かれたものです。 「星の王子様」で知られる著者が記す”勇敢さ”とは?”ヒロイズム”とは? 心に響く言葉が数多くあり、忘れないようにここに記したいと思います。 厳しい郵便飛行路の開拓の末、散って行った仲間を偲び、真の贅沢とはただ一つ、人間関係の贅沢であると語っています。 物質上の財宝を追うて働くことは、われとわが牢獄を築くことになる。人はそこへ孤独の自分を閉じ込める結果になる、生きるに値する何ものをも購うことのできない灰の銭をいだいて。 やはり仲間を思い、人間の責任と偉大さについて 彼もまた、彼らの枝葉で広い地平線を覆いつくす役割を引き受ける偉人の一人だった。人間であるということは、とりもなおさず責任を持つことだ。人間であるということは、自分には関係がないと思われるような不幸な出来事に対して忸怩たることだ。人間であるということは、自分の僚友が勝ち得た勝利を誇りとすることだ。人間であるということは、自分の石をそこに据えながら、世界の建設に加担していると感じることだ。… ぼくは死を軽んずることをたいしたことだとは思わない。その死がもし、自ら引き受けた責任の観念に深く根ざしていないかぎり、それは単なる貧弱さの表れ、若気のいたりにしかすぎない。 サハラ砂漠の真っ只中に不時着したサン=テグジュペリが、生還が絶望的である中で 人は人間の働きをしてみて、はじめて人間の苦悩を知る。人は風に、星々に、夜に、砂に、海に接する。人は自然の力に対して、策をめぐらす。人は夜明けを待つ、園丁が春を待つように。人は空港を待つ、約束の楽土のように。そして人は、人間の本然の姿を、星々のあいだにさがす。 戦争について なぜ憎しみあうのか?ぼくらは同じ地球によって運ばれる連帯責任者だ、同じ船の乗組員だ。新しい総合を生み出すために、各種の文化が対立することはいいことかもしれないが、これがお互いに憎しみあうにいたっては言語道断だ。 人間の役割とは? たとえ、どんなにそれが小さかろうと、ぼくらが、自分たちの役割を認識したとき、はじめて僕らは幸福になりうる、そのときはじめて、ぼくらは平和に生き、平和に死ぬことができる、なぜかというに、生命に意味...

読んだ本メモ⑤ 「生物から見た世界」ユスキュル/クリサート著、日高敏隆・羽田節子訳

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甲虫の羽音とチョウの舞う、花咲く野原へ出かけよう。生物たちが独自の知覚と行動で作り出す<環世界>の多様さ。この本は動物の感覚から知覚へ、行動への作用を探り、生き物の世界像を知る旅にいざなう。行動は刺激に対する物理反応ではなく、環世界あってのものだと唱えた最初の人ユスキュルの、今なお新鮮な科学の古典。 岩波文庫のとびらにはそう紹介されています。 <環世界>とは聞きなれない言葉ですが、これは客観的な環境ではなく、主観的な環境のこと。著者のユスキュルはそれぞれの主体が環境の中の諸物に意味を与えて作り上げている世界をドイツ語でUmweltと呼びました。それを本書では環世界という訳語を与えています。 われわれは、この世界をあるがままの姿で、捉えているのでしょうか?私たち人間は、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚という五感を通して世界を知覚しています。視覚で捉えられるのは、可視光線と呼ばれる帯域の光線のみで、紫外線や赤外線は目で見ることはできません。聴覚にも可聴範囲があります。同様に、各々の感覚には限界があります。そして、生物によっては、感覚の機能からその特性まで、実に様々です。本書でも、 われわれはともすれば、人間以外の主体とその環世界との事物との関係が、われわれ人間と人間世界の事物とを結びつけている関係と同じ空間、同じ時間に生じるという幻想にとらわれがちである。この幻想は、世界は一つしかなく、そこにあらゆる生物がつめこまれている、という信念によって培われている。すべての生物には同じ空間、同じ時間しかないはずだという一般に抱かれている確信はここから生まれる。 と書かれているように、空間や時間は生物にとって等しく存在するものではないことが指摘されています。これは、感覚器官の性能には生物種によって異なるということが原因の一つと考えれれます。視覚について考えてみると、どれだけの画質でものを捉えているのか(空間分解能)、どれだけ速いものを見れるのか(時間分解能)によって、空間と時間は決定されていると考えられます。当然、小さすぎたり、速すぎたりすることで目に見えないものがあるわけです。そういったものは人間の環世界では存在しないものとなるわけです。 本書では様々な角度から、生物によって環世界がいかに異なっているかを教えてくれます。種によって、時には同種の個体によってさ...

読んだ本メモ④ 「キャッチャー・イン・ザ・ライ」J.D.Salinger著、村上春樹訳

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結構前になると思いますが、村上春樹が新訳を出したということで話題になっていました。 今更ながら、読んでみました。 そもそも、本作は「ライ麦畑でつかまえて」という邦題で出版されていたということは、多くの方がご存知かと思います。私は、「ライ麦畑でつかまえて」を読んだことはなかったのですが、そのタイトルから勝手に恋愛小説だと思い込んでいました。だけど、実際は高校を退学になった16歳のホールデンが打ち明け話を語るというもの。 「ライ麦畑でつかまえて」というのは、実に魅力的なタイトルだけど、意訳しすぎだし、村上春樹がタイトルを原著のままで、新訳を出版したことに納得します。 主人公のホールデンは、もう子供ではないが、大人にもなりきれていないそんな16歳。頭は悪くないみたいだけど、勉強なんてする気はない。世の中のもの、すべてに難癖をつけて、くだらないと周りの人間を軽蔑している、そんな少年です。将来何になりたいかと妹に尋ねられた彼はこう言うのである。 「でもとにかくさ、だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、小さな子どもたちがいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、僕はいつも思い浮かべちまうんだ。何千人もの子どもたちがいるんだけど、ほかには誰もいない。つまりちゃんとした大人みたいなのは一人もいないんだよ。僕のほかにはね。それで僕はそのへんのクレイジーな崖っぷちに立っているわけさ。で、僕がそこで何をするかっていうとさ、誰かその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。つまりさ、よく前を見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチするんだ。そういうのを朝から晩までずっとやっている。ライ麦畑のキャッチャー、ぼくはただそういうものになりたいんだ。」 この作品は、ホールデンが僕らに打ち明けるように、語り続けるという構成になってますが、半分くらいまで読み進んだころ、私は徐々にホールデンにイライラしてきてしまった。周りにケチばっかつけて、自分は知的ぶっていて。 そこで、実際にこういう少年と出会ったら、どうするか考えてみることにしました。 救いようのない奴だと、話を切り上げることもできる。しかし、どうしようもない自分の話を誰かに聞いてほしいときもある、ここは我慢して聞いてやろうか。とそんな...

読んだ本メモ③ 「エンデュアランス号漂流記」アーネスト・シャクルトン

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アーネスト・シャクルトン著、木村義昌/谷口善也訳「エンデュアランス号漂流記」を読みました。 著者のアーネスト・シャクルトン氏は1874年生まれ、英国の極地探検家。 1911年、アムンゼン率いるノルウェー隊が、スコット率いるイギリス隊にわずかに先んじて、南極点への到達を成功させたため、南極大陸探検における一大目標は、海から海への横断を成し遂げることとなりました。 時は第一次世界大戦のさなか、シャクルトン氏は隊長として、南極大陸横断の探検を成功させるべく出発します。しかし、厳しいウェッデル海の浮氷に阻まれ、大陸に上陸することすらできず、漂流。さらには、エンデュアランス号を失い浮氷での生活を強いられ、救援を求めるためにボートで厳しい南太平洋を横断したりと、筆舌に尽くしがたい苦労をします。2年近くもの漂流生活の末に、船員全員が一人も欠けることなく、生還することができたのは奇跡的であり、隊長のシャクルトンの賢明な判断と隊員の優秀さによるものでしょう。 ここからは、私の個人的な意見と感想です。 本作品は、シャクルトン氏や隊員の日誌をもとにまとめられた航海記録であり、その詳細がよくわかります。まず、目を見張るのが装備や道具が現代といかに異なっているかという点です。約100年前ですので、よくよく考えてみれば当然ですが、港を離れれば基地との通信はできませんし、船は木造の帆船です。寝袋はトナカイの毛皮製、着るものも毛皮やウール製だったでしょう、現代の化繊と違い、保温力も劣り、乾きにくく、重たいはずです。そんな装備で、零下30℃にもなる南極大陸周辺の海で生活するということがどれほど過酷か、想像を絶します。 私は雪山登山をしますが、装備の質が格段に向上した現代、しかも南極ほど厳しい気象条件ではない日本ですら、自然の厳しさを幾度となく実感してきました。冬期の登山で気を使うこととして、衣服を濡らさないということがあります。濡れてしまうと凍りついてしまい、そんなものを着ていては凍傷を負いかねません。しかし、海上では濡らさないというのはかなり難しいはず、というかまず無理でしょう。本作の中でも、衣服を濡らしてしまい完璧に乾くまで2週間かかったというような記述がありました。隊員は多かれ少なかれ凍傷を負っていたでしょうし、かなり衰弱していた隊員もいたようです。 隊員全員28人を...

見た映画メモ① 「127時間」

「127時間」 という映画を見ました。 2011年に公開されたダニー・ボイル監督の作品。 登山家のアーロン・ラルストンの自伝『奇跡の6日間』が原作です。 主人公の職業はエンジニア(元?)、週末は登山を楽しむ青年。 キャニオニング中に足を滑らせ、一緒に落ちた岩に腕を挟まれてしまう。 引き抜くことも、岩を削ることも失敗し、行先を家族や友人に伝えていなかったため救助がくることも見込めない。 わずかな水と食料で、数日生き抜くも死を覚悟し始める… 最終的に彼は腕を切り落とし、何とか生還するのだが、 そのシーンは生々しく、衝撃的だ。 主人公の年齢やその他もろもろがほぼ自分と同じなので、 わが身のことのように感じます。 行先は必ず、家族に伝える これ大事です。 最近、面倒でおろそかにしがちでしたが、再認識しました。

岡本太郎の目玉展

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岡本太郎記念館に行ってきました。 場所は表参道駅から徒歩10分ほど。 もともとは岡本太郎氏の自宅兼アトリエの建物でしたが、 今は記念館として、作品の展示やカフェとして利用されています。 岡本太郎記念館 では 現在、岡本太郎の目玉展という展示が行われています。 岡本太郎がよく画題として描いた「顔」そして「目」、作品からはとてもエネルギーを感じられます。 目玉展と連動して『目玉市』も開催! かなりセンスのいいグッズがいっぱい。 でも結構売り切れ続出… また、以前国立近代美術館で岡本太郎展を開催していた際に、人気を博したガチャガチャがリニューアルバージョンで復活していた!! 思わず一つがちゃりました。 目玉展は9月28日まで開催しています。

読んだ本メモ② 「方法序説」デカルト

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「方法序説」を読みました。 かの有名な17世紀フランスの哲学者ルネ・デカルトの著作。 デカルトと言えば、「われ思う故に、我あり」という一文はあまりに有名。 これは「方法序説」で記述されている「コギト・エルゴ・スム」というラテン語を日本語に訳したもの。 デカルトは哲学者として知られていますが、 現在のおよそ全ての学問の方向性を示した偉大な思想家です。 彼は、当時の学問と言われるものの全てを学んだ上で、 それらに疑問を投げかけ、ゼロから信じられるものを積み上げていきました。 デカルトの生きた17世紀の西洋では、新しい哲学や科学は厳しく断罪されていました。 ガリレイ断罪は特に有名なものです。 デカルトも「方法序説」の中で、そのことに触れており、「世界論」等の著作を書き上げながらも、生きているうちには発表できないことを語っています。 この著作には、現代の科学や常識からは外れる内容もありますが、 六部構成のうち第四部は特に、デカルトの思想を知るには重要でしょう。 全てを疑ったデカルトが、たどり着いた「コギト・エルゴ・スム」から 「神の存在証明」に至るまでの思索を知ることができます。 「神の存在証明」というと少しオカルトなものを想像してしまいますが、 ここで言う「神」とは、髭もじゃでローブを着たような神様がいるという話ではなく、 完全性を持つ存在と語られています。 デカルトの「神の存在証明」は後世の哲学者によって否定されていますし、 機械論的思考によって発展してきた近代科学も、学術思想の転換を迎えようとしています。 現代のデカルトは、どのように今後の学問の行く末を指し示すのでしょうか。

読んだ本メモ 「動的平衡」福岡伸一

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読んだ本について備忘録 タイトルは「動的平衡 Dynamic Equilibrium」  「生命はなぜそこに宿るのか」という副題がつけられています。 著者は分子生物学者の福岡伸一さん。 一般向けの著作も多数、「生物と無生物のあいだ」は有名。 「動的平衡」とは? 昨日の私と、今日の私は同じ私です。 これは紛れもない事実ですが、ミクロな視点で見るとそうとも言えなくなってきます。 私たちの体を構成する分子は、日々分解され作り替えられているからです。 髪や爪が伸びるのと同じように、体すべてが作り替られています。 「私たちの身体は分子的な実体としては、数ヵ月前の自分とは全く別物になっている。分子は環境からやってきて、一時、淀みとして私たちを作り出し、その瞬間にはまた環境へと解き放たれていく。」 通りすぎて行く分子の淀みが私たちの身体であり、その流れが生きているということ。 こうした流れの中で一定の状態を保っていることが「動的平衡」と呼ばれています。 生命には「魂」があると考えている人は現代でも多くいらっしゃると思います。 古代ギリシャの時代では、「プネウマ」が生物を動かしているという生気論が唱えられていました。 一方で、ガリレオやデカルトの時代から自然科学は大きく飛躍を遂げます。それは「機械論」的思考によるものです。現代の生物学や生理学においても生体や生体を構成する組織を「機械」として捉えることで多くの発見がなされ、多くの病気が解明されてきました。 とはいえ、やはり生物はロボットではありません。臓器や四肢を入れ替えれば、必ずよくなるとは限らないと思います。それは、「生きている」ということは動的平衡状態の「流れ」に相当するということが原因かもしれません。